アオティーサバーイジャイ生活@タイ

เอาที่สบายใจ(アオティーサバーイジャイ) どうぞお好きなように~ Amazingなタイランドでの日々。

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【自分用覚え書き】生きるってことはシンプルにただ生きることだと思う。

ここ最近モヤッとしていたこと

高江の悲痛な叫びと、ポケモンに興じる人々。

放射能汚染された地域の復興を謳い、オリンピックだと騒ぎ、一方で貧困にあえぐ人や虐待のニュース…

テロやクーデターなど、世界中がどうかしてるような昨今、目に飛び込んでくるニュースはもうほんと溜息しか出ない。

 

相模原大量殺傷事件への世間の反応

そんな中、世間を騒がせている(もしかしてもう過去形かな)相模原の障碍者施設での45人殺傷事件。

ひとりで、更には包丁で、9人の夜勤職員を拘束し、広い施設の中45~50分間に45人を襲い19人の命を奪うという(ひとり当たり1分)、にわかには信じ難いニュース。。

この事件もショッキングではあるけれど、それに対する人々の反応がまたショックだった。

施設で働く人の劣悪な環境から始まり、犯行に及んだ犯人の気持ちもわかるとか、中には障碍者の安楽死の是非を問う声などとんでもない発言まで。

日本における「弱者」の立場がどういうものなのかが浮き彫りになった事件だと思う。

たしかに介護職は大変な仕事だと思う。でもそれを理由に弱者を排除するのはおかしい。

他人が平然と他人の「生きる価値」を口にする、とんでもない社会。

安楽死などという言葉を目にした時から、モヤモヤというか、なんだかすごく気持ちが悪かった。

障碍者に限らない。日本では弱者が生きづらい。弱い者がもっと弱い者を攻撃するからだ。そしてそれはなんだか、加速しているような気もする…

 

そんな中見つけた、心にすんなり入ってきたとある文章

TwitterでたくさんRTされているyahoo知恵袋の回答。

私もRTしたけど、覚えておきたいのでこの記事を書いている。

文系だからあんま難しいことわからないけど、この人の言葉はとてもわかりやすいし、真理だと思う。

 

organic science theme with dna

 

 

弱者は淘汰されるのが自然の摂理ではないのかという質問への、回答者の言葉

(以下全文コピペ)

え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません

弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません

虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています

***

自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です

個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)


そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります


「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)


アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです


我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

(以上コピペ終了)

 

あのリングシリーズでも?

リング、らせん、バースディ。あの有名なホラーシリーズ、なんだか貞子がテレビから出てくるシーンが印象的すぎて、ただひたすらなホラーなイメージだったんだけど、ちょっと前に初めて原作を全部読んだんですよ。

SFなんですねあれ。SFホラーていうのか?

で、詳細はがっつり省きますが、遺伝子の多様化は生き残るために必須だということが書いてありました。

単一では、脅威的なウィルスなどに襲われた場合全滅してしまうから。

様々な個体がいた方がいいんです。

まさに「優秀な遺伝子など存在しない」のです。

シリーズを読み終えて、こんな話だったんかー!と思いました。

 

「生きる価値」って言葉がそもそもおかしいのでは

生きるってことは、生きる以外のなんでもないと思うんだけど。

食って寝て排泄して、生きるために必要なら働いて。

やりたいことやるとか、行きたいとこ行くとか、それはそれとして。

生きるってことに価値を見出してどないすんねんと。

100歩譲って見出したいなら見出してもいいですけど、おひとりでどうぞっていうか、他人の命には言及したらダメだと思う。そんな権利は誰にもないはず。

弱くて役に立たないものは必要ない、殺していいなどと、平気で口にできるような社会であってはいけないと思う。

 

覚えておきたいからこの記事を書いてる、って書いたけど、いつか子供らとこんな話をしたいなぁと思ったのです。(ちょっと話したことあるけど理解できてないと思われ)

みんなちがってみんないい、じゃないけど、色んな人がいて、みんな同じじゃないこと。

隣人を愛せとかそういうことでなくてね。日本式「みんなと仲良くしなさい」は無理があると思うし、そんな必要ないとも言ってるけど。

ただ世界には色んな人がいるんだよって。みんなただ生きていて、それが当たり前なんだよって。意味も価値もない。当たり前のこと。

 

他人の命を奪う権利は誰にもないのと同様、「生きる価値」の是非を問う権利など誰にもないということ。

色んな人が共存するのが社会だということを、わかって欲しいな。

 

そんな私も、若かりし頃に新宿アルタの前でおっさんに「いくら?」って聞かれた時、「死ねばいいのに~~」って言ってしまったし、あんまり偉そうなことは言えないかもしれないんだけど。(ちょっと違うか?)

まぁあれですよ。

人間だもの。 をこめ。